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2017年04月23日

熊本ではなぜ木造仮設が可能だったのか —— 建築家・伊東豊雄の挑戦



熊本ではなぜ木造仮設が可能だったのか —— 建築家・伊東豊雄の挑戦

https://www.businessinsider.jp/post-1725

 熊本地震では、18万3千棟の建物に被害が及んだ。 この1年、世界的建築家・伊東豊雄は、熊本県から依頼を受け、被災者の住環境支援に積極的に関わってきた。 建築家の立場から東北の復興支援に携わった自身の経験を、伊東は熊本でどのように生かしたのか。
 地震から2年目を迎えた現在、伊東は熊本独自の復興公営住宅の計画づくりに取り組んでいる。
 「東北で復興公営住宅を考える際、住民から『エレベーターの回りにベンチがあるといい』といった意見が出ても、行政は『公営住宅は平等に』という意識が強いため、なかなか実現しませんでした。熊本では、そうした小さなことを改良して新しいモデルをつくれたら。まず1つの復興公営住宅で実現すれば、熊本の復興公営住宅のレベルが1つ上がります。そして、熊本でここまでできたということで、また次につなげられます」
 東日本大震災後、伊東は宮城県釜石市で復興ディレクターを務めたが、提案したプランがことごとく受け入れられなかったという経験をしている。国や県の公平性を重視する「均質化のカベ」に阻まれた。 だが、熊本には東北にはなかった可能性を感じているという。
 熊本県は被災者のために2016年11月までに4303戸(17年4月10日現在)の仮設住宅を提供。県内110の仮設団地では、復興に向けた日常生活が始まっている。

 アートポリスが変えた熊本県の発想
 伊東が熊本県から依頼を受けているのには、いきさつがある。熊本と伊東の関わりは、1988年に熊本アートポリス事業が始まって以来、今年で30年になるのだ。熊本アートポリスは、元首相の細川護煕が熊本県知事時代に始めた建築事業だ。デザイン性にすぐれた現代建築を街の文化的資産にしようと、初代コミッショナーに世界的建築家・磯崎新を迎え、国内外の錚々たる建築家たちが、橋、駅、フェリーターミナルなど、80を超える公共建築をデザインしてきた。1991年には、当時50歳だった伊東も八代市立博物館・未来の森ミュージアムを設計している。
バブル経済崩壊後は、アートポリスへの風当たりが強くなった。地元の建築家を活用しないことへの批判や、県民の支持が得にくいなど、一時期は存続さえ危ぶまれたという。しかし、後任の知事も3代にわたり事業継続を判断。伊東は2005年から3代目コミッショナーとして、「地元を巻き込む」ことを意識して取り組んできた。
 そんな中で起きた熊本地震だった。そして仮設団地や復興公営住宅づくりの先頭に立ったのが、熊本県建築土木課の熊本アートポリス班だったのである。
 地震発生の2週間後、2016年4月27日。伊東は県庁の会議室で 仮設団地のマスタープランをスケッチしていた。
 「棟の間隔を広くしました。東北では4メートルだった間隔を、5.5メートルまたは6.5メートルに広げ、仮設住宅3棟ごとに1本縦通路をとることにしました。東日本では6棟ごとに1本でした。ゆとりのある配置は、熊本の仮設住宅の進化です。自宅から狭い仮設住宅に移り住んだ心理的圧迫感は、これだけでもだいぶ軽くなります」
 この基本プランは、全ての仮設団地に適用された。
 伊東とアートポリスが実現した仮設住宅の新しい取り組みはほかにも2つある。
 1つ目は、仮設住宅50戸ごとに集会所「みんなの家」を建てたことだ。合計110の仮設団地に84棟の「みんなの家」がつくられた。東北では、仮設団地の設計段階から集会所が計画に組み込まれたケースはない。
 2つ目は、従来の仮設住宅は鉄骨やプレハブであるのに対し、全仮設住宅戸数の15%、合計683戸を熊本県産の木材を使った木造にしたことだ。

 熊本地震で建てられた木造の仮設住宅
 熊本地震では、地元の木材を使った仮設住宅が建てられた。
 くまもとアートポリス事務局(熊本県建築課)
 「アートポリスがあったから、自治体からこういう発想が出るのです。同じ災害がほかの都道府県で起きていたら、東北と同様の無機質な仮設がつくられていたに違いありません。アートポリスを続けてきた成果です」
 熊本県は、東日本大震災の被災地に対し、伊東を通じて建物による被災地支援をしている。
 現地で災害復興に携わっていた伊東は、無味乾燥な仮設住宅の環境でも暮らしを楽しもうとする人たちの姿を見て、人々が集う場として 「みんなの家」と名づけた集会所を建てようと考えた。
 伊東は震災直後の2011年5月、熊本アートポリスの定例会議の場で、ダメもとで熊本県にスポンサーになることを提案する。すると趣旨に賛同した知事・蒲島郁夫が、アートポリス初の県外事業に認定したのだ。熊本県が寄付した木材と工費600万円により、「みんなの家」の1つ目が仙台市宮城野区の仮設住宅に贈られた。
 「東北では人が集まる場をつくることの意味を、行政が理解しなかった。それで、1つずつお金を集めて6年がかりで15棟をようやく建てた。熊本県のアートポリス班の職員は、仙台の『みんなの家』の竣工式に出席して、被災した人たちがあたたかみのある集会所をどれほど喜んでいるかを実感しています。それが、熊本が被災した際に、行政主導で仮設団地に『みんなの家』を計画することにつながったんですね」

被災者を前に建築家は仕事を誇れるか
 熊本の84棟の「みんなの家」は、県産材を使ったぬくもりの感じられる空間だ。
 そのうち8棟は、建築家と住民が話し合いながら設計した。それまで住んでいた地域から切り離され、不自由な環境で生活する被災者たちが、顔が見え、声をかけ合う関係をつくり、コミュニティに育っていくための機能を、自分たちで話し合うのである。
 このプロセスも大事なのだと伊東は言う。
 「意見を言うことで、参加する住民も、自分たちが使ういいものを建てようと意識が変わっていきます。これは公共建築にも言えることです」
熊本で地震が起こるとは誰も想定していなかった。自ずと、自治体の対応は遅れがちになり、仮設住宅に関しても「遅い」との報道が多く見られた。しかし伊東は「それは違う」と言う。
 「僕が熊本に入った時点ですでに仮設住宅のプランはどんどん進んでいました。初動は決して遅くなかった。むしろ、ゆとりの確保や『みんなの家』の設置、木造仮設住宅の建設といった、熊本での新しい取り組みがちゃんと伝えられていない」
 木造住宅の方がプレハブ住宅より工期が長いため被災者の入居が遅れるとの指摘に対しては、伊東はこう反論した。

 「速さをとるか、快適性をとるか。仮設暮らしが5年に及ぶ人も多い中、僕は入居が1カ月遅れてでも居住条件がよくなった方がいいと思ってます」
 今なお、仮設住宅では、10952人(17年4月10日現在)が暮らす。次のステップは被災者にとって重要な選択肢となる復興公営住宅。その建設計画を担うのは市町村で、伊東が率いるアートポリスは県の事業である。各市町村がアートポリスと組んで復興公営住宅事業を推進することの利点を理解し、要請しない限り、アートポリスは関わることができない。
 一時は存続の危機にあった熊本アートポリスが、いま、被災者の住環境を支援するプラットフォームとして機能しようとしている。応援にきた他県の自治体職員は、建築家と住民の細かい調整などまで行うアートポリス班の業務をみて「うちではここまでは到底できない」と漏らしたという。 東日本大震災で伊東は「建築家としてゼロからやり直したい」と発言するほどの衝撃を受けた。いま東北や熊本に向き合い、伊東自身も変化に挑んでいる。
 「熊本県からは1990年代当時から、アートポリスの建築は全部木造で、という要請があった。当時はピンときませんでしたが、今、木造は建築家にとっておもしろい取り組みの1つになりました。時代とともに、建築の概念が変わろうとしています。こうしてみると、時代とともにアートポリスの意味が浮上してきたとも言えます。被災者を前にした時、自分たちの仕事に胸を張れるのか。建築家自らが考える時期です」

(文中敬称略)
三宅玲子:ノンフィクションライター。熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜2014年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」を運営。
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Posted by 飯野健二 at 07:25Comments(0)熊本大分地震