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2015年03月31日

岩手県大槌町で復興グルメグランプリ

4月12日(日)、岩手県大槌町で、復興グルメグランプリが開催されます。


https://m.facebook.com/fukkogourmet?refsrc=https%3A%2F%2Fja-jp.facebook.com%2Ffukkogourmet  


Posted by 飯野健二 at 21:22Comments(0)大槌町

2015年03月30日

2015年03月25日

2015年03月24日

地方議会の女性議員12%にとどまる

 facebook で注目している中のお一人、今井淑子さんの投稿からです。
 以下、今井さんの投稿です。
◆地方議会の女性議員 約12%にとどまる◆
▽都道府県議会議員8.9%
▽市議会と区議会議員13.8%
▽町村議会議員8.9%
・日本全体に“政治は男性の領域”という意識の壁
・家族や親族の反対の壁
・現職でいる男性議員が女性の参入を許さない壁
・議会のシステムそのものの壁
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150321/k10010023691000.html

 また、日本経済新聞からです。
日本経済新聞 3月23日
慶応大学法学部教授
片山善博氏
「地方創世の課題は市域に若者や女性がいなくなる点が挙げられるが、議会がそういった人々からそっぽを向かれている。女性議員がいないどころか、立候補すらないところもある。そんな状況で他の地域に人が流出するのは当たり前だ。」
「通年議会を導入し、毎週水曜など定例日の夕方から審議すれば、仕事帰りの会社員なども議会に参画しやすくなる。請願を出した住民が趣旨を議会で説明できるようにし、審議の過程で住民の意思が反映できるようにすれば、議会への関心も高まる。決まったことを説明する議会報告会よりもいい。私なら、候補者にそういう事をしますかと問いたい。」  


Posted by 飯野健二 at 20:40Comments(0)地方議会を市民の手に!

2015年03月23日

母校の文化祭に行ってきました。







 母校の文化祭に行ってきました。
 講堂 1日目 10のうち2つ 2日目 12のうち6つ
 中庭 1日目 6つのうち3  2日目 7つのうち3つ
が、ダンスでした。ほとどが女子のみです。女子校の文化祭みたいでした。写真は、2日目中庭の、SYSD、PINKGANG、書道部、乃木坂なのかもしれない、です。  


Posted by 飯野健二 at 14:31Comments(0)修猷館高校

2015年03月21日

師範代方式



【師範代方式】駿台予備学校で講師をしている時に作った方法です。
http://goo.gl/srC25W
 「説明を聞く、教えてもらう」のではなく、「説明をする、人に教える」ということを、してもらいます。
 人に説明できるレベルになると、受験で通用します。

 以下、facebook のノートからです。
 師範代方式という方法を、数年前から、始めました。
 実際に、数学がほとんどできなかった高校生などを、一橋大や国公立医学部などへの合格のお手伝いをした実績があります。
 高校受験にも、十分適応します。
 「先生→生徒A、生徒B、生徒C、その他多数」という流れではなく、「先生→生徒A→生徒B→生徒C」という伝言ゲームのような流れを作ります。
 生徒Aは、必ず伸びます。
 寺子屋などで、先生役の師範代が、実力が上がるのと同じです。
 さらに、同じ問題の説明を、生徒B以外でも、二人に対して、してもらいます。
 弟、妹、お母さん、お父さん、近所の知り合いなどです。
 状況によっては、大学生を家庭教師として雇い、聞き役をしてもらいます。
 人に説明できるレベルになっていれば、受験に対応できます。
 数学が苦手な生徒や、ある程度の点は取れるが、入試に向けて、確実に成績を上げたい方などにも、効果があります。  


Posted by 飯野健二 at 14:18Comments(0)師範代方式

2015年03月20日

古川忠先輩の応援大会





 3月14日の古川忠先輩の応援大会に参加してきました。応援弁士として、太田誠一元国務大臣、古賀篤衆議院議員、平畑雅博福岡市議会議員などが、来られていました。
 また、後援会長として、石村萬盛堂の石村先輩が来られていて、久し振りにご挨拶しました。  


2015年03月19日

2015年03月18日

「外国要人初」ウィリアムズ王子「被災地一泊」

facebook で、注目している中のお一人、JTB の毛利直俊さんの投稿からです。

覚悟、お気持ち、感動しました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150313-00010000-fsight-int&fr=fb_oa_tpc

 「外国要人初」ウィリアム王子「被災地1泊」の意味

新潮社 フォーサイト 3月13日(金)11時2分配信

 英国のウィリアム王子(32)が2月26日に来日し、3月1日までの4日間滞在した。妻のキャサリン妃は第2子妊娠中で夫妻での来日とはならなかったが、外国の要人としては初めて東日本大震災の被災地に1泊し、2日間にわたって被災者たちと交流して好印象を残した。
 ウィリアム王子は訪日中、東京都内の英国関連イベントにも出席したが、主たる訪問目的は2つだった。1つは英王室と日本の皇室の長い関係を踏まえた交流。2つ目が震災地訪問である。特に後者は王子の強い希望で、「被災者と会わないのでは訪日する意味がない」と側近に伝えていたという。
 皇室との交流では、天皇、皇后両陛下がお住まいの皇居・御所に招き、昼食をともにした。ウィリアム王子は御所の玄関に出迎えた両陛下に「またお目にかかれてうれしいです」「ご招待ありがとうございます」と英語であいさつし、握手した。両陛下はエリザベス英女王在位60年の2012年5月に訪英した際に王子と会っており、それ以来の再会だった。その後、王子は元赤坂の東宮御所を訪れ、皇太子ご夫妻とも懇談した。

■欧州25カ国大使館が一斉避難
 しかしハイライトは1泊での被災地訪問だった。過去、被災地を訪れた外国首脳はそこそこいる。しかし福島第1原発の放射能汚染が世界で取り上げられている時、福島県内に1泊した要人は私の記憶ではいない。しかもウィリアム王子は王位継承第2位である。
 外務省の儀典課に確認すると、
「確かにこれまで外国首脳は皆日帰りで、被災地に1泊した人はいないと思います。日程の都合や宿泊場所の問題もあったのでしょうが」
 と語る。
 安倍晋三首相が東京の首相官邸ではなく、わざわざ福島県に足を運び、王子の宿泊先(郡山市の磐梯熱海温泉)の旅館で歓迎夕食会をもったのは、そうした王子への感謝と共に、世界に向けて風評被害を払拭する効果的な機会と捉えたからだ。
 ただ見逃してはならないのは、ウィリアム王子の福島県内での宿泊は王子の個人的思いを越えて、原発事故に対する英国の一貫した姿勢とも通底していることだ。
 3.11直後、各国の駐日大使館の対応は原発事故をどう見るかで二分された。放射能汚染の拡大に危機感をもった国は、東京の大使館を閉鎖したり、関西以西に大使館の機能を移した。震災2週間の時点で私が数えたところ、その数25カ国に上り、多くがドイツ、スイス、オーストリアなど、放射能に敏感な欧州の国だった。
 一方、同じ欧州でも英国、フランス、イタリアの大使館は東京にとどまった。
 しかし東京に進出しているフランス企業ではパニックになったフランス人社員が特別機で一斉に帰国し、日本人社員だけ取り残され、業務がマヒする事態が続出した。後日、フォール大使(同)は日本の新聞に、
「大使館は退避勧告は出していないが、大使としておわびしたい」
 と謝罪するハメになった。

■震災時の英大使館のぶれない姿勢
 その中で英国とイタリアの対応が際立った。イタリアのペトローネ大使(当時)は、
「友好国が困難な時期に、我々は東京にとどまって連帯を証明する」
「在日のイタリア企業は日本を助けるため業務を中止しないでほしい」
 との声明を出した。
 輪をかけて見事だったのが英国だ。ウォレン大使(同)は震災2日後、支援物資を積んだ車を連ね、仙台市に入った。16日までの3日間、宮城県の南三陸町、多賀城市などの避難所を回り、英国人の安否確認や、無事だった人に食糧などの物資を配った。
 さらに在日英国人向けに英大使館のホームページで、英国の原子力専門家の見解を次々とアップし、福島第1原発から一定の距離を保てば、放射能汚染を過度に恐れる必要はないことを科学的に説明した。当時、さまざまな見解とウワサが飛び交う中で、私が一番参考にしたのもこの英大使館のホームページだ。「きちんと対応すれば大丈夫。過剰な反応こそ危険」との英大使館の姿勢はぶれることがなかった。
 この英国の姿勢の延長線にウィリアム王子の郡山市1泊があると私は感じている。英国としては王位継承第2位の王子が宿泊することで、風評被害に悩む日本を側面から応援し、日本に寄り添う英国の立場を示す意図があったとみられる。もちろん「郡山市は安全」という認識があった上でのことである。

■すべて福島県産の「11コース」
 安倍首相は28日夜、老舗旅館「四季彩一力」で夕食会をもったが、その献立である。

〈料理〉
 先付 「養老玉子」船引町おおくらの卵 郡山産山芋 生雲丹
 前菜 福島産野菜の琥珀寄せ 会津地鶏牛蒡鋳込み 阿武隈高原えごま豆腐 福島産えごま豚角煮 郡山産鯉煎餅 川俣軍鶏と胡桃の熨斗鶏 白河産うるい梅肉酢味噌
 椀物 郡山産鯉のスッポン仕立て 郡山産白髪ねぎ 露生姜
 造里 花びら盛 灯篭 細魚姿造り 鮪 鮃 帆立
 焼物 吉次杉板焼(相馬港) 酢取生姜
 揚物 天ぷら 鱈(相馬港) アスパラ 郡山産椎茸
 温物 矢祭町産柚子釜焼 郡山産しめじ 鱈白子 会津玉味噌
 強肴 福島牛しゃぶしゃぶ 福島産野菜
 食事 五目ちらし 郡山産あさか舞コシヒカリ 福島産野菜
 留椀 豆腐となめこ汁 郡山産なめこ 長沼豆腐(須賀川市) 会津田舎味噌
 水菓 「春待ち苺」 鏡石産EXベリー
〈飲物〉
 磐城壽 山廃純米大吟醸
 飛露喜 無濾過生原酒

 ご覧のようにすべて福島県産だ。メニューに産地や水揚げ港がこと細かに記載されているのは、官邸の指示だろう。飲物も福島県産で、2種類出されている。旅館によるとワインは出されなかったという。
 冒頭、安倍首相が「今日は福島のおいしい食材を堪能していただきたい。王子に食べていただくことが風評被害を払拭する大きな力になる」とあいさつ。浴衣に着替えた王子は「温かいお迎えにお礼を申し上げたい」と応じた。
 食事中、東日本大震災の際の英国からの支援や、被災者の冷静な対応振り、さらにラグビー・ワールドカップや東京オリンピック・パラリンピックといった話題に話が弾んだ。それにしてもデザートの水菓まで11コース。「福島県産の食材は安全」と伝えたい気持ちが溢れた品数だが、王子はすべて食べられたのだろうか。

■「心揺さぶられる会話」
 被災者との交流では、王子は初日の28日、福島県本宮市の児童運動施設「スマイルキッズパーク」を視察した。王子はボールをお手玉のように投げ上げる「ジャグリング」を披露し、拍手を浴びた。この後、施設の外で英国の国樹であるオーク(ヨーロッパナラ)の木を子供たちと植樹し、「この木がどの木よりも大きくなるといいね。見守って、ぜひ報告してください」と語りかけた。
 翌3月1日は宮城県石巻市など沿岸の被災地を回った。石巻市では子ども3人を亡くした夫妻と懇談。メディアは入れなかったが、英王室スポークスマンは「心揺さぶられる会話が交わされた」と述べた。夫妻が明らかにしたところによると、王子は3人の子供を亡くした夫妻の話に、「私も若いころ、大切な母(ダイアナ元妃)を亡くし、少しはお2人の気持ちが分かります。母を思い出してつらい時は今日のことを思い出します」と語ったという。
 女川町では住民が獅子舞踊りや太鼓を鳴らして歓迎し、王子はがれきの中から見つかった「希望の鐘」を鳴らし、復興のために開設した商店街の人々とも言葉を交わした。各所で王子は予定をオーバーし、側近をハラハラさせたが、1日夕、日本での全日程を無事終えて次の訪問先の中国へ向かった。

ジャーナリスト・西川恵  


Posted by 飯野健二 at 19:25Comments(0)東日本復興支援

2015年03月16日

高齢者宅に大学生が住む「異世代ホームシェア」


  facebook で、注目している後輩の中の一人、というか、行動が私以上に跳ねている Ran Konoe ( http://goo.gl/Dvspzf )さんのタイムラインからです。ちなみに、鴻江蘭さんは、H20年卒です。
http://bigissue-online.jp/archives/1020565934.html

 船橋拓さんの記事の抜粋です。
 部屋を持て余している単身高齢者と長時間通学な大学生のデメリットや不安を解消する「異世代ホームシェア」
 今年1月から東京都文京区にある高齢者のご自宅に大学生が下宿するようになりました。というのも高齢者は4年前に妻を亡くして以来一人暮らし。大学生の方は埼玉県の実家から1時間以上かけて通学していました。そのお互いの生活上のデメリットや不安を解消する「異世代ホームシェア」という試みが始まっています。
長谷川さんは4年前に妻を亡くして以来、一人暮らし。藤倉さんは下宿する前、埼玉県草加市の自宅から1時間弱かけて大学に通っていた。今は自転車で5分ほどだ。
「他人がうちにいる違和感と安心感。どちらもある」と長谷川さん。地域の活性化について研究する藤倉さんは「体験は研究に役立ちそう。ストレスを互いに感じないような関係づくりを模索中です」と話す。

 両者を結びつけたのは文京区の商店主らがつくるNPO法人「街ing本郷」が今年度に始めた「ひとつ屋根の下プロジェクト」です。コーディネーターの存在が非常に重要です。
 異世代ホームシェアのメリットは、まず高齢者にとってはごみ出しや月一度の古紙回収など重い物を持ってくれる、とか何かあったときに頼りになる(救急車呼ぶとか)などかなと思います。大学生にとってはなんといっても通学時間の短縮、安い家賃、他にも地域活動を体験できて勉強になる、とか。つかず離れずの距離感がよかった、というコメントがあるように双方の自由を尊重しながらストレスを回避するような絶妙な距離感が取れると上手くいきそうです。
2013年に取り組みを始めたNPO法人「リブ&リブ」(東京都練馬区)は、東京都日野市の原正則さん(68)と和加子さん(67)夫妻宅に、東京学芸大4年の女子学生(24)を紹介。昨年11月から卒業を控えた今月9日まで、一緒に暮らした。
週5回は和加子さんが夕食を作る。2回の夕食づくりと後片付けは女子学生が担う。和加子さんは「つかず離れずの距離感が良かった」、女子学生も「自由にさせてくれ居心地が良かった」と話す。
 高齢者と大学生が共に暮らす取組は1990年代後半、スペインで始まった
 世代間交流ホームシェア事業のNPO法人「リブ&リブ」のウェブサイトによると、高齢者と大学生が共に暮らす取組は1990年代後半にスペインで始まったそうです。「リブ&リブ」」代表理事の石橋ふさ子さんは2008年にバルセロナを視察し、日本にも広めたいと準備しました。
私たちの中心活動である「世代間交流ホームシェア事業」は1999年にスペインのバルセロナで初めて実施され、その後猛暑で多くの独居シニアが亡くなった後のパリでも同様の仕組みが開始されています。現在欧米ではこの仕組みによる数千組のペアが世代を超えた同居生活を楽しんでいます。
NPO法人 リブアンドリブ http://liveandlive.org/
 シェアハウスを広げる活動をするNPO法人「ハートウォーミングハウス」でもシニアと若者のホームシェアに注目しています。 http://hwh-npo.jimdo.com/
 高齢者も大学生もそれぞれ生活上の課題を抱えているわけで、血縁関係にこだわらず、というかそんな余裕も無い状況の中では双方の生活上のデメリットや不安を解消するためのマッチングはとても意義のあることです。  


Posted by 飯野健二 at 09:36Comments(0)地域•社会問題解決方法

2015年03月15日

はしだ和義さんを応援しています。



 はしだ和義さんを応援しています。http://hassy.asia/
https://www.facebook.com/kakehashida?fref=ts
 写真は、赤坂交差点で、辻立ちをされているときのものです。
 六本松、桜坂、赤坂で、辻立ちをされているそうです。応援、よろしくお願いします。  


2015年03月06日

こどもたちが考え作る健康のまち



 facebook で、注目している中の一人、工藤瑞穂さんの投稿からです。いい試みです。

 以下、工藤さんの投稿です。

 マチノコトで書きました*
 3/21,22に大阪のNPO法人cobon主催の「ミニカンサイ」が開催されます!
子どもたちが自分たちで考えてつくったまちで、仕事をして、稼いだお金で買い物をするというイベント♪
小さな頃からまちの運営や社会について考える機会があるのは、すごくいいなあと思います(^^)

 代表の松浦 真さんもおもしろくて素敵な方ですー!
 小竹 めぐみさんもファシリテーターされるそうです♫

 関西の子どもたちはぜひご参加くださーい!

http://www.machinokoto.net/minikansai/  


Posted by 飯野健二 at 16:18Comments(0)工藤瑞穂

2015年03月06日

第10回ふくしま復興かけはしツアー



 facebook で注目している中の一人、Yusuke Kato さんのタイムラインからです。かけはしツアー、いいですね。

 
http://www.fkk21.com/vw/d.php?id=2583&io=0&fndYear=2015&fndMonth=3&c=448&clm=0&os=0&lmt=30&odr=A

~ヒューマンツーリズム~

第10回ふくしま復興かけはしツアー in東和・小高

行   程
JR福島駅西口(11:00集合)――道の駅ふくしま東和(昼食)――きぼうのたねカンパニー(菅野瑞穂さんの活動紹介/13:30~15:30)――南相馬市小高区・小高ワーカーズベース 和田智行さん(誰もいない夜の小高区散策)――南相馬市原町区(泊/18:30頃)

南相馬(9:00発)――南相馬市小高区(小高市街地・警戒区域境界(浪江町)の視察・沿岸部の視察・福島県有機農業ネットワーク根本さんの畑視察・南相馬市の事業者との交流)――昼食(おだかのひるごはん/12:00~13:00 ※2014年冬スタートの、避難指示区域唯一の飲食店)――道の駅南相馬(休憩・お買い物/13:30~14:00)――JR福島駅(16:00頃到着)

宿泊施設 いちばん星

食事条件 朝食: 1 回 / 昼食: 2 回 / 夕食: 1 回

おひとり様大人 18,400 円
  


Posted by 飯野健二 at 12:28Comments(0)南相馬市

2015年03月02日

“これまで”が”これから”を決めるのではなく、”これから”が”これまで”を決める。


 facebook での山本朝海さんのタイムラインからです。少し、内容を引用します。
 人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。http://greenz.jp/2014/03/13/haruosaji/

 以下、全文のコピーです。インタビューアー 飛田恵美子
 “これまで”が”これから”を決めるのではなく、”これから”が”これまで”を決める。理論物理学者・佐治晴夫さんインタビュー[STORY OF MY DOTS]

 あなたは、惑星探査機「ボイジャー」を知っていますか?ボイジャー2号は、1977年に打ち上げられて様々な惑星・衛星を観測し、昨年9月には太陽圏を脱出したことで大きな話題となりました。空の彼方で、人がつくったものがそんなに遠くへと旅をしているなんて、なんだか不思議ですね。
 このボイジャーには、55の言語による挨拶や、地球上の様々な音を収録したレコードが搭載されています。そのうちのひとつ、バッハの「プレリュード」は、理論物理学者の佐治晴夫先生の提案によって搭載されました。
 特集「STORY OF MY DOTS」は、“レイブル期”=「仕事はしていないけれど、将来のために種まきをしていた時期」にある若者を応援していく、レイブル応援プロジェクト大阪一丸との共同企画です。
 今回は、理論物理学者でありながら、数学や音楽、詩などにも造詣が深く、物理学や宇宙論などの難しい話をわかりやすく教えてくれることで有名な佐治先生のストーリーを聞かせていただきました。

音楽家、数学者を諦めて、物理の世界へ
 佐治先生は、東京大学大学院で物理学を専攻した後、東京大学物性研究所へ進み、研究の傍ら松下電器東京研究所で「1/fゆらぎ扇風機」や「VHS3倍速モード」といった製品を開発。数々の大学で教授を務め、2004年から2013年までは鈴鹿短期大学の学長として短大の経営危機を乗り切る仕事に取り組みました。
 その一方、NASAの客員研究員として学んだ宇宙研究の成果を“平和教育へのリベラルアーツ”と位置づけ、全国の学校への授業行脚も行っています。
…と、こう書くとその経歴に圧倒されてしまいますね。先生にも、将来に悩んだ時期なんてあったのでしょうか。

傍から見ると順風満帆に見えるかもしれませんが、人間ですから、色々なことがありました。そもそも、私は物理学者になりたいと思っていたわけではありません。もともとは、音楽家になりたかったんです。

 昭和18年、佐治先生が小学3年生のとき、父親からこう言われたそうです。「まもなく連合軍による日本本土空襲が始まるだろう。そうすると、日本に数台しかない貴重なパイプオルガンが焼けてしまうかもしれない。学校を休んでもいいから、聴いてきなさい」。
そこで、兄に連れられ、日本橋三越本店へオルガンの演奏を聴きに行ったんです。当時はいつ空襲がはじまるかわからない状況でしたので、オルガニストも戦闘服を着ていました。演奏する曲も軍歌ばかりです。でも、演奏の合間に、ふしぎな美しい曲が入るのです。兄が、「これがバッハだよ」と耳元で教えてくれました。
 佐治先生はこのとき、なぜかとても心を打たれたといいます。兄の一人が東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の出身だったこともあり、「ぼくも芸術家になりたい」と夢見るようになりました。
しかし、東京藝術大学にはそう簡単には入れるものではありません。それなりの基礎的能力のない私にはとても無理な話で、高校生のとき、その事実に直面して落胆し、打ちひしがれていました。しかし、なんとか気をとりなおし、「それではどうするか」を考えたのです。
なぜ私は藝大に入れないのか。演奏も基礎学力もまったく不足しているからです。だとすれば、自分には何ができるのか。自分にできるもので、音楽に感覚的に近いものは何か。私にとっては、それが数学でした。
 そうして大学の数学科に進んだ佐治先生でしたが、ここでも挫折を味わうことになります。
入学直後は、「自分でも、それなりに頑張れば、いま授業を教えている助教授くらいにはなれるだろう」などと生意気なことを考えていたのです。ところが、周りは本当に優秀な学生ばかり。よく、小説や映画に「一風変わった天才」が出てきますね。本当に、社会生活には馴染めないけれどずば抜けて頭がいい天才たちがたくさんいました。
しかも、学年がすすむにつれて、いつかは追いつけるだろうと思っていた助教授との距離はせばまるどころか、広がっていくばかりです。自分のふがいなさに自信をなくしていきました。焦りましたし、「数学者などという職種には、とうていつけないだろう」と途方に暮れました。
 しかし、再び佐治先生は「自分にできること」を考えました。数学に取り組んできた経験を活かせば、物理の研究者にはなれるかもしれない。少し背伸びをして、理論物理の世界へ進みました。
 そうした紆余曲折の末に辿り着いた理論物理でしたが、ここで、その後活躍する活躍する基礎が築かれたのだそうです。

人に希望を語ることが、生きている人間の役目だと気づいた
 大学院を卒業してからも研究を重ねた佐治先生は、なにもないところからの宇宙創生に深くかかわる「ゆらぎ理論」の第一人者となります。NASAの客員研究員としてボイジャー計画に携わり、ボイジャーが宇宙で知的生命体に出会ったときを想定したメッセージとして、バッハの「プレリュード」を搭載することを提案しました。
 なぜバッハだったのでしょう?ひとつの理由は、子どもの頃に聞いたパイプオルガンの思い出がずっと印象に残っていたから。もうひとつは、バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいからです。数学の論理こそが、宇宙の普遍的言語であると考えられることから、ETとの交信に役立つだろうと考えたそうです。
 音楽や数学を学んだ後、理論物理の世界に入った佐治先生だからこそ、この提案ができたのでしょうね。
ボイジャーは何千年も何万年も飛び続け、いつか本当にETに出会うかもしれません。ボイジャーに搭載したレコードには、半減期が40億年以上のウラニウム238が塗ってありますが、これは、今から40億年以内にETに遭遇したとき、いつ、どこからやってきたメッセージなのかがわかるように、時計として塗られているのです。そのころ、地球人類はもういないかもしれませんけれどね。
人の一生は百年足らずですが、自分の生涯の長さ、いえ、ひょっとしたら人類の時間をはるかに超えて残る仕事ができたのは、とても幸せなことだったと思っています。もし、私が最初の希望通り音楽家になっていたら、こんなことはできなかったでしょう。そう思うと、人生って不思議ですよね。
佐治先生はその後、研究やプロジェクトを通して学んだことを若者に伝えるため、さまざまな大学で教鞭を執ることになります。その際、大事にしていたのは「希望を語ること」でした。
はじめてウィーン大学に行ったとき、敬愛するシューベルトのお墓を訪れました。当時の私は、言葉の壁や、周囲にいるたくさんの秀才たちとの違いに悩んでいました。しかし、その墓碑に書いてあった言葉に、強烈な印象を受けたのです。グリルパルツァーという詩人の言葉で、日本語に訳すと、こういう内容です。

「ここに、ひとつの豊かな宝物を埋葬した。
しかし、それだけではない。たくさんの美しい希望をも埋葬した。
フランツ・シューベルト、ここに眠る」

2行目は、もしシューベルトが生きていたら、我々に与えてくれたであろうたくさんの美しい希望も埋めてしまった、ということです。私はここに胸を打たれたのです。つまり、人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。
 教えるとは「希望を語る」ことであり、授業とは「相手の心に火をつける」営みのこと。しかし、二酸化炭素しかなかったら、火はつきません。まずは酸素のある環境を整えること。そこにそっと火を灯すと、心はひとりでに燃えはじめる。それが先生の持論です。
 佐治先生の授業は、ピアノやオルガンの演奏から始まり、金子みすゞさんやまど・みちおさんの詩、時には聖書や仏教の教典なども引用しながら、私たちが生きる世界の不思議を紐解いていくというユニークな内容で、学生から大きな評判を呼びました。
 学生時代に周囲の「圧倒的な天才たち」に引け目を感じたという佐治先生ですが、たくさんのひとにわかりやすく世界の仕組みを教え、希望を与えることが先生の役割だったのかもしれませんね。

昨日の自分はもういない
 いま、レイブル期にある人の中には、過去の失敗から自信を失っていたり、やりたいことがあっても「自分にできるわけがない」と思ったりしている方がいるかもしれません。
 でも、佐治先生によると、自分の体を構成している60兆の細胞のうち、約1%、つまり6千億が一晩のうちに入れ替わるそうです。昨日と同じ自分はもうどこにもいないし、数ヶ月後には別人と言ってもいいでしょう。そう考えると、何回でも生まれ変わって、新しい自分になれる気がしませんか。
よく、「過去・現在・未来」といいますね。この時間の流れから考えると、「これまで」が「これから」を決めると思うかもしれません。でも、いまみなさんが思い浮かべている過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。
人生というのは、編集作業に似ています。素敵な物語を、美しい暦としてつくっていきたいですね。
 佐治先生は68歳のとき、子どもの頃にはじめて聞いて感動した日本橋三越のパイプオルガンを弾く機会を得ました。知り合いになった三越の社員に思い出を話すと、閉店後に演奏できるよう取りはからってくれたのです。
半世紀以上も昔、パイプオルガンをはじめて聞いた小学3年生の男の子が年老いて、いまこうしてその同じオルガンにふれている。そう考えると、とても不思議な気持ちがしました。夢なのか、現実なのか・・と。
 佐治先生はそのときのことを、愛おしそうに目を輝かせながら話してくれました。
人生の半分くらいは予測できても、あとの半分はわからない。これが”ゆらぎ“です。真っ直ぐ一直線に歩こうとすると、莫大なエネルギーを必要とします。ゆらぐことによって、エネルギー消費量を少なくして余裕がでてくるものです。考えてみれば、私の人生って、ゆらぎっぱなしでしたね。
「明日何が起こるかわからない」ことに対して、「怖い」と思う方もいるかもしれません。確かに、怪我をするかもしれないし、失敗をするかもしれない。でも、素晴らしいことが起こるかもしれません。80年生きてきた私が若い人に伝えたいのは、「生きるって、悪いものじゃないよ。しかも、そのすばらしさは生きてみないとわからない」ということ。それが結論です。
 いくつものたとえ話を出し、さまざまな方向から熱心に語る佐治先生からは、「人生の素晴らしさを伝えたい」という気持ちがひしひしと伝わってきました。
もし、人生が灰色に思えたり、未来に不安を感じたときは、一呼吸してから空を見上げてみましょう。途方もなく長い時間と希望を乗せたボイジャーが、いつかETに出会うことを夢見て、いまこの瞬間も広い宇宙をひとりで旅しているます。あなたも、この広大無辺な宇宙の中で、たったひとりだけの存在です。力む必要はないけれど、ちょっとだけ未来に向けて踏み出してみませんか。かけがえのないあなた自身の物語をつくるために。

 飛田 恵美子
 1984年2月29日生まれ。茨城出身、神奈川在住。
「地域」「自然」「生きかた・働きかた」をテーマに、書くことや企画することを生業としています。虹を見つけて指さすように、この世界の素敵なものを紹介したい。
・「東北マニュファクチュール・ストーリー」というサイトを、一般社団法人つむぎやと一緒に運営しています。
・日本橋のシェアオフィスにて、気ままなごはん会「6階食堂パルプンテ」を開催。日によって美味しさにばらつきがある、適当な会です。 twitter:@emi229

   


Posted by 飯野健二 at 15:39Comments(0)好きな言葉